「ウーバーイーツをするなんて、恥ずかしい…」
そういう思いを持っている方が世間には少なからずいて、時にはSNS上でそういう事を言葉にしてフーデリ配達員を避難する人も居たりする。
配達員をしている当事者はあまり気分が良いものではないけど、まあ言いたいことはわかるし、自分も全く恥ずかしくないと思っているわけではなかったりするしで、仕方がないと割り切っている部分はある。
そういった部分をあれこれと書いてみようかな。
なぜ「恥ずかしい」と言われたり思われたりするのか
そもそもとして、なぜフーデリ配達員という仕事が恥ずかしいと思われるのか。細かく言い出せばキリがないけど、思い当たる部分としては次のような点に集約される気がする。
目立つ格好である
1つは、やたらと目立つ格好である点。何が目立つのかっていうと、やはりあのバッグ。
料理を受け取る際には大きなバッグを背負って飲食店に入っていくのですから、異様さがある。そのためどうしても一瞬注目浴びる。年々その視線は弱くなりつつあるけど、数年前は刺さるほど注目を浴びた。
これはシンプルに恥ずかしいと感じたけど、世間もなれるもので、以前ほど注目を浴びなくなった。
2023年の今、「あ!ウーバー!!」と言っている人は多分ウーバーイーツが展開されていない田舎の人だと思う。
ネガティブな印象がある
フードデリバリーが普及した背景にはコロナ禍があり、そのコロナ禍で仕事をなくした人が仕事をしているイメージ=いわゆる底辺の人たちみたいな印象が刷り込みとして多くの人の中にはあるはず。
実際に僕自身も底辺の人間だと自覚があるし、あながちその印象は間違ってないと思う。
そして、その印象を覆せるだけの材料がフードデリバリー配達員にはない。
めちゃくちゃ稼げる時期は終わったし、社会不適合者がやっていることも少なくないし。
どうしてもネガティブな印象で見られてしまうのは仕方がない部分がある。
「恥ずかしい」と言われたり思われたりすることに思う事
そのような理由から配達員をするのが恥ずかしいと思う人も居るし、配達員を見た人が「恥ずかしい仕事だ」と思っているかもしれないこともわかる。
そのうえで次の3つのことを思う
他人の仕事を評価評論するってこと
求める人があるから仕事は成立するのだから、必要としている人が居るからその仕事があるわけで。それを恥ずかしいと評価評論する行為は、それもまた恥ずべきことなんじゃないかな?と。
他人の役に立つことをするのが恥ずかしいことなのか?と。
ネガティブだけを気にしすぎ
これはすべてに言えることだけど、どんなことでも賛否両論、プラスマイナス、ポジティブネガティブがあるもの。
配達員への評判も、声の大小の違いがあるだけで、ネガティブもあればポジティブもある。
配達員をしようとしている人で「恥ずかしい仕事だ」と思っていたり、配達員を見たらネガティブな評価ばかり下す人は、いつもネガティブにばかり耳を傾けすぎているということも考えられる。
思考の癖のようなもので、仕事に関してだけじゃなく、あらゆる場面でネガティブしか見ないんじゃないだろうか?
そういう人が想像するほどネガティブな状況や環境ではないかもしれない。
結局は慣れの問題
結局は慣れなんだと思う。
ウーバーイーツが出始めたころは珍しいからこそ「あれはなんだ!?」という注目を浴び、その配達員の背景を知るにつれて社会不適合者がやっているのだという先入観を持たれていたけど、世の中はよくも悪くも慣れてくるものです。
バッグを背負ったバイクや自転車を見ても珍しいと感じなくなったし、色々な事業で仕事をしていて、何もそれはこの仕事だけじゃなく他の仕事をしている人も同じだよなと思うようになる。
そうなるとだんだん興味も関心も薄れてくるので、恥ずかしいと感じるような瞬間も減ってくるんじゃないかな?とも感じている。
・・・ってなわけで
自分自身が4年以上も配達員をしているので感覚がマヒしてしまっている部分はあるけど、3年前、4年前と比べて、明らかに世間が慣れている感はあります。
加えて、コロナ過で困っている時に配達してくれたり、買い物に行けない時に持ってきてくれるからという理由で便利さを実感してくれるようになってきているので、世間からの評価も変わっているとも感じる。
だから、恥ずかしいと思う瞬間は本当に少ない。
ショッピングモールにバッグを背負って商品を受け取りに行くときはいまだに抵抗があるけど、そういう状況でもない限りは、何も感じなくなりつつある。
極論、その人にどう思われようが、その人が俺の代わりに何かをやってくれるわけじゃないし、お金を払ってくれるわけでもないしな…みたいな割り切りもある。